WPW(ウォルフ・パーキンソン・ホワイト)症候群(その2)

やはりマラソンの授業で発症してしまう。

それから謎の心臓発作は再発はせず、無事高校に進学。

そして、体育の授業では、やはりというか当然のようにマラソンの授業はある。

何度やってもマラソンは辛い。正月の駅伝等をテレビで観ているが、見る方も走る方も一種のサドマゾなんじゃないかと思うぐらいだ。今の社会情勢、ハラスメント感情であれば、無理強いするマラソンは、ハラスメントや虐待の部類に入らないのかと思える。実際、キャンパスハラスメントと定義されている所もあるようだが。

閑話休題

そんな高校体育のマラソンの授業で、やはりと言うか、また発症してしまった。

コースはトラックではなく、川の堤防を数キロ往復する。

よーいドン。走り始めた途端に、また、あの「ドクン」が胸に響き、

「どこどこどこどこ・・・・」

と、心臓がまた暴走し始めた。

あ、きた・・・・。やばい。胸を押さえて、しゃがみ込む。

周りの生徒は、当然のように私の事情を知らないので冷ややかな目で走り去っていく。今回は体育担当の先生がスタート地点に居たので、「大丈夫か」と様子を伺ってくれた。これは有難かった。どうせ言っても信じてくれないだろうと思っていたが、症状を話すと理解は示してくれた。先生が脈を計ってくれたのだが、弱いのか速すぎるのか脈が取れないらしい。

WPW発作時の脈拍は200から300位と言われている。鼓動が速いと高血圧になるかと思われがちだが、心臓は収縮、拡張を繰り返してポンプの役割を果たすが、心臓が収縮が終わらない段階で元に戻ろうとする。いわば心臓が痙攣しているような状態なので、逆に鼓動が速過ぎると血を送り出す機能ほぼ果せない。なので、心臓は体が動く程暴れまわっているのだが、脈も取れず血圧も取る事ができない。血は辛うじて廻っている感じになる。

とにかく苦しい。だが、しゃがんでいるしかやりようが無いので、前起こったように暫く経てば治る事を期待して、暫く堤防の道の端でうずくまる。しかし、今度は5分経っても収まらない。顔から頭にかけて痺れるような違和感、貧血とだるさが襲う。心配はしてくれるが先生は何もしない、というかできないので放置される。

生徒が折り返して帰ってきた頃に、またドクンと言う大きな心臓の脈拍と共に症状が収まった。症状が収まると、直ぐに体が温かくなり、本当に何もなかったかのように体調は復活する。

困ったもんで、ちょうど終わるぐらいに治ってしまうから始末に悪い。言われさえしないが、「走りたくないだけじゃねぇの」と、また仮病扱いされる。暫くしんどいフリをすればいいのだろうが、自分にはできない。

先生からは、「爆弾抱えてる」と揶揄されるが、まだ、誤解されてないだけマシだ。

どうしても体育の授業に出てしまう。

それから、度々その発作がでるようになってしまう。それも体育の授業の時だ。体操着に着替えている時、走っている時、柔道の時間等だ。何故か、普通の授業の時は発症しない。体調やストレスが関係しているのだろう。それから何回出たかまでは覚えていないが、教室でうずくまっていたり、皆に悟られないようにトイレで蹲っている時の辛い記憶だけは鮮明に覚えている。大体5分から20分位で発作は収まるようだった。

その発作の恐怖はあったが、頻繁に出るわけではなかったので、なんとか高校3年間をやり過ごした。それから社会人になるまでは1年間に1,2回発症する程度だったので、自分でも慣れてしまい、またかとうずくまり、うずくまれない街中等では、発作が収まるまでトイレに入って治るのを待っていた。

バンドのライブで発症

なんとか頻繁ではないにしても、生活に支障は最小限で留まっていた。しかし、高校時代から活動をしてたバンドのライブ直前でそれは発症してしまった。

ライブ出番は2時間後。それまでには治るだろうと、メンバーに説明して休ませてもらっていた。しかし、一向に発作は止まらない。もう1時間は経っている。体に力が入らなくなってきた。そしてまた、少し誤解の視線が出始める。ライブに出たくないのかと言う声がきこえてくる。違うんだよ。ライブは楽しみにしていた。確かに緊張はしているがライブには出たい。なのに体が言う事を聞いてくれないんだよ。本当に泣きそうになる。

発作は結局おさまらず、出番の時間が来た。しょうがないからそのまま発作の状態で舞台に上がる。私の担当はドラム。まだ座っているだけ良いのか。なんとか叩く事はできるが、頭が朦朧としているので間違えてしまう。もうむちゃくちゃな演奏になってしまったと思う、とにかくバンド演奏は終わった。あまり記憶が無い。

脂汗が体を覆う。まだ心臓はどこどこ言っている。すこし脈拍が弱くなっている気がする。暫くすると吐気がでてきた。知り合いの車で横にならせてもらう事になった。しかし、その車が止まっている駐車場に移動している間に吐いてしまった。何も食べてないから黄色い胃液しかでない。手足が冷たい。苦しい。なんとか車に到着し、後部座席に横になって寝る。あかん。もう駄目かもという思考が過る。暫くすると知り合いに看護婦(当時)の人が居たらしく、様子を見て貰ったら「チアノーゼが出ている。救急車を呼んだ方がいい」と診察してくれた。

ちあのーぜ?ってなんだ?とにかく、助けてくれ。

暫くして救急車が到着し、バンドメンバーと共に乗り込む。初めての救急車だ。救急隊員が血圧を測ってくれているのだが、やはり計測できない。手首をもって脈拍を取ろうとしてくれるが脈が取れない。救急隊員は不思議そうに俺を見ていた。

そうなんだ、血圧は取れない位低い。血はかろうじてめぐっている感じだ。だが、意識もあるし話す事もできるんだ。本当に生殺し状態で辛い。現在のように指先に挟んで酸素濃度を計測できるオキシメータは無かったからわからないが、恐らくは酸素濃度は相当低かったと思われる。

病院に到着して、なにやら点滴と注射を打ってくれて、暫くすると発作はようやっと止まった。ドクンという大きな脈も無く、すっという感じで止まった。しかし、以前のようにすぐに元気にはなれない。長時間心臓が活動していたからだ。すぐに激しい嘔吐が出て止まらない。胃の中は殆ど何もないが、胃液だけ出てくる。体は虚脱感がして朦朧としている。苦しい。

病名としてはその時点では判らなかった。とにかく、この状態では帰宅する事はできないので、ICU(集中治療室)に入れられる。

それからもやはり嘔吐は続き、看護婦さんに背中をさすってもらいながら収まるのを待つ。知らない間に親に連絡がいったらしく母が来てくれた。今の私の現状をみてやっと事の重大さを分かってくれたみたいで、それ以降はこの症状をやっと理解してくれ、心配してくれるようにはなった。

ICUの様子をみる余裕はなかったが、数台のベットがカーテンで仕切られているだけの部屋で、物々しい医療機器の数々が並んでいる。絶えず信号音や赤や緑のランプが点滅している。出入口には粘着質の床があり、靴(サンダル)の裏についた埃等も持ち込ませないような作りになっていた。

取り合えず一晩経ったら回復し、立てるようになったので翌朝退院した。ただ、主治医からの説明もなく、この症状の原因、病名も告げられる事はなかった。なんだか自分の置かれている状況も分からず、この病院の場所がどこかも分からなかったが(確か大国町の大きな病院)、とりあえず財布だけは持っていたので治療費を払って電車で帰った。どうやって帰ったか記憶にはない。

後日、バンド仲間が自分の楽器等を持って帰ってくれていたので、お礼ついでに取りに行った。